2024年度 春季特別展「眼の記憶/手の記憶」開催のお知らせ

お知らせ

2024年6月6日

このたび、芸術館では春季特別展として「眼の記憶/手の記憶」を開催します。
本展は「記憶」という主題のもと、本学教員/画家の鷹木朗の絵画作品と、京都芸術大学芸術館の所蔵品である縄文土器類をコラボレーション展示するものです。

◽️作家略歴
1957生
1980    ジャパンエンバコンクール(エンバ美術館)
1980    吉原治良賞展(大阪府立現代美術センター)
1983-91 CONTACT ’83-’91(京都府立文化芸術会館)
1999    アートドキュメント’99 —アジアの森から—(金津創作の森・福井)
1980    金山平三賞記念美術展(兵庫県立近代美術館)
2002    2002新鋭美術選抜展(京都市美術館)
2003    CAP EXHIBITION「party」(CAP HOUSE・神戸)
2009    架空通信 百花繚乱展(兵庫県立美術館ギャラリー)
2012-13 尼崎アートフェスティバル(尼崎市総合文化センター)
2018〜  Ge展(京都市美術館など)
他に個展、グループ展多数(1979-2024)

◽️作者の言葉

 私は絵画という表現形式を用いて、日常の中で視界の端をかすめていく「眼の記憶」の断片を掬い上げ、それを指でなぞるようにキャンバスの上で定着させたいと思う。これは「眼の記憶」を「手の記憶」に置き換えていくような作業だと言えるかもしれない。

 数十年も前のこと、私は発掘によって出土した埴輪や須恵器など古墳時代の遺物を復元するアルバイトをしていたことがある。断片を繋ぎ合わせ、足らざるところを石膏で補い彩色していく作業だ。1600年ほど前の誰かがその手の中で生み出した土の造形が、私の手の中に確かに存在していて、その「手の記憶」が伝わってくるような実感を覚えたものだ。それは、復元されてしまえば写真資料として記録されガラスケースに収められ、二度と触ることができなくなる。

 『芸術館』で縄文式土器を観る。ガラスやアクリル板の向こうにあるそれは、昔体験した「手の記憶」を思わせるが、やはり触ることはできない。数千年も、さらに一万数千年も昔の誰かが、その手の中から生み出した土の造形、そのような「手の記憶」を「眼の記憶」に置き換えて、私はそれを視ている。

 逆方向のベクトルを持つ「記憶に関する二つの作業」を交差させることで、そこを訪れる人の記憶を喚起し、「記憶と記憶の出会う場所としての絵画/記憶と記憶の出会う場所としての博物館」を実現したいと考えた。

◽️本展キュレーターの言葉

眼の記憶/手の記憶

淡い光の拡散
白い空気の静謐な漂い
絵の表面は寒暖差で生じるガラス面の微水滴に覆われた薄い膜のよう
その被膜越しに時おり覗く図象は遠い記憶の階層として現れる
——身体に、浸透するかのように

何が描かれているのだろう。鷹木朗の絵を前にするといつもこの問いが頭をもたげる。そして何を描きたいのだろうかと想像はあてどなくさまよい、やがてその思考も停止する。これまでの絵はそのような印象を抱くものであったが、ここ数年の作品は明瞭になりつつあるように思える。それは絵画としての鮮明さといってよいのかも知れない。川の源流を遡行して漸く出会う滝つぼや山の辺の道に立つ磨崖仏のようにも見える絵は、しかし私の想像に反して、作家の目に映った何の変哲もない町の風景であるらしい。彼は日常の風景をデジタルカメラで撮影し、PCの画面上で手を加えながら自身にとってのリアルな景色を感覚的に探り、記憶としての光景を傍らに、今度は絵筆でキャンバスの上に記憶のなかの風景を追う。その一連の行為は作家の言葉によれば「日常の中で視界の端をかすめていく<眼の記憶>の断片を掬い上げ、それを指でなぞるようにキャンバスの上で定着させる作業」であるという。その作業の繰り返しのなか、身体の内にある記憶のかけらを手がかりに、ある種の秩序をもって構築された絵画が今ここに在る。

岡本康明(元本学教員) 

◽️関連イベント
ギャラリートーク
期日:6月22日(土) 14:00-15:30
会場:京都芸術大学芸術館
登壇:鷹木朗(出品作家)、岡本康明(キュレーション)

 

コレクション(常設展)